ひらりと淡い花びらが舞い降りる。
穏やかな午後の陽光を受けて、きらりと輝くそれが猫の瞳に移り込み、ぼんやりと宙を見つめていた猫は一瞬眩しそうに瞬きをした。
その上から更に、ひらりひらりと花びらは降り注いで、猫ごと一帯を白く染め上げていく。ただ、仰向けになった猫の腹に滲む赤だけが、色鮮やかに目を惹いていた。
とくりとくりと脈を打ち溢れだす赤は一見すると血のようだが、その実、温度もなく何の臭いもせず、質量すら感じさせないものだった。大地が赤を瞬く間に吸い込んでしまう様は、その赤が幻かと思うほど。しかし、猫からは確実に生気が失われていくのが感じられた。
動くものはきらめく光の欠片のみで、何一つ物音すらしない。いや、耳を澄ませば微かに、浅く揺れる猫の乱れた呼気と脈の音を感じ取ることができた。しかしそれも、明確な音となる前に儚く空気に溶けては消えていく。
全ては静寂の中にあった。
やがて、細々と空気が振動する合間に小さな嗚咽の響きが混ざり始め、間もなく誰かが噎び泣いているのだと知れた。花びらに埋もれる猫のすぐ傍に、まだ年若い少女が屈み込んでいる。静寂に響く声は、猫を覗き込むようにして体を震わす少女の物のようだ。押し殺した泣声は悲痛の色に歪み酷く痛々しい。それでも猫は、少女の方へ首を僅かにことりと傾けただけだった。
まるで何も知らない小さな子どものような猫の仕草は、己の現状を理解できていないのではないかと思わせるものだったが、その顔にぱたりぱたりと少女の涙が降り注いでようやく、「ああ」と短い声を発した。
「ああ、そうか……、君が名を……」
消え入りそうな声音は、しかし、嘆きが込められているものでも、ましてや怒りを湛えたものでもなかった。だからと言って、無関心な冷たさを持っているわけでもなく、一つ、納得したのだというような調子であった。
少女の瞳から、涙がまた一段と大きい滴となって零れ、猫の顔を濡らしていった。嗚咽の声は一層大きくなり、少女の小さな唇が細かく震える。その唇が何らかの言葉を紡ぎだそうとするのを、猫は黙って待っていた。
ひらりひらりとその間も絶え間なく、花びらが舞い降りる。きらめく陽光が少しだけ位置をずらし、色味を橙に変えながら木々の間から差し込んでいた。
少女が息を吸い込む。
「ご、ご……め、ん……なさいっ、ごめん、な、さいっ……」
ようやく絞り出された言葉は、籠った音に満ち、途切れ途切れで不明瞭なものだった。だがしかし、聞き取りにくいはずにも関わらず、猫はその意を汲んだのだろう、ゆっくりと口を開いた。
「どうして……、謝るの? 君は、私の名を呼んだだけ、だろう? 何も、悪いことは、していない」
抑揚のない調子はどこか自動人形のようで温度を感じさせない。少女は、今ある温もりを逃さぬよう必死に猫の体を掻き抱いた。次々に溢れる涙は枯れることを知らないように流れ落ちる。
「ちがう! ちがう、の……私、は、ずっとあなたを騙していたからっ……ずっと……始めからわかっていたの! あなたが、……っ! あなたが、……昔、私が飼っていた猫なんだって……死んじゃったあの子だってっ! こうなることがわかっていた、のにっ、側にいたの……会えて、嬉しかったから……! ずるいね……、私、ごめんなさい……っ」
一気に胸の内を吐き出し、堪えられなくなったのか、少女は顔を猫の肩に埋め声を上げて泣き出した。小さくごめんなさいと謝る声が繰り返し続く。ひくりとしゃくり上げる背中に、猫の血の気の失せた手が緩やかに置かれた。
「わたしも、……わかっていた、よ。」
「え……?」
「感じていた。君に、残る……わたしとの、つながり。温かい、楽しい、思い出。わたしは、もっとそれを感じていたくて……、黙っていた。君を、いつか、苦しめることに、なるのを知っていたのに。離れ、られなかった。だ、から、……君のせいじゃ、ない。泣かないで……」
猫の声は何処までも平坦で、凪いでいた。
しかし、少女の背中をぎこちなく撫でているその手は、どうしようもない程柔らかく、優しさに満ちたものだった。ゆっくりと、ゆっくりと手は滑り、少しずつ少女の嗚咽がその動きに重なり始める。体を包む緩やかなリズムの繰り返しに落ち着きを取り戻したのか、しゃくり上げる少女の声は次第に治まっていった。
それでも透明な涙はぱたりと零れ落ちる。
「でも、私が、名前を呼んだから……あなたは消えてしまうのに……」
「ねぇ。わたしは君に、また会えて、うれしかったんだよ……消えてしまう、かもしれなくても……それでも、君のそばに……、いたいと思うほどに」
だから、これは自分の不注意のせいであって、君のせいではないのだと、再度猫は少女に言い聞かせた。それから、君にまた名を呼んで貰えて堪らなく嬉しいのだと。
そう言って微笑んだ猫の顔は、沈みゆく太陽の光を受け美しく輝いている。きれいだと、心から思わせるような幸せを宿した穏やかな微笑み。その顔を見て少女はふと溜息を零した。強張っていた体からようやく力が抜けたように息を吐き、適わないと頭を振る。
「あなたにそこまで想ってもらえるなんて……、私は、世界で一番の幸せものだわ。でも、どうして? 私は一緒に暮らしていただけなのに……何もしていない、してあげられなかったのに……」
「ち、がう……君、……すずは、わたしにいろいろなものを、くれた。なにも、もっていなかったわたしに、名をくれて、あいしてくれた……だから…… わたしは、すずが、いっとう、すき、だったよ……」
くしゃりと、少女、鈴の顔がまた涙を湛えて歪む。両手で血の気の失せた猫の顔を包み込み、その瞳に自らを焼き付けるかのように覗き込んだ。
「私も、あなたが一等好きだった。可愛くて可愛くて仕方がなかったの。あなたが嫌がっても、私はよく追いかけていたわね……、覚えて、いるかしら……?」
震える声に、猫はこくりと嬉しそうに頷いて。
そうして、最期の言葉を落とす。
「なまえをよんで、すず。きみのこえで。もういちど……よんで……」
もう、この世に留まることはできないから。最後の我儘を。
君に見送って欲しいのだと猫は言う。最早淡い吐息が漏れるのみの口ではなく、その藍玉を映したような不思議な色の瞳で。
夕日が最後に投げて寄越した光が二人を彩る。
赤色に染まる世界の中で、鈴が、厳かに頷いた。
「さくら」
ふわりと降りしきる花弁と同じ名が音となった瞬間、猫の体は花びらに溶けるように消えていった。
か細い腕が宙を抱くように伸ばされる。鈴の瞳からは、大粒の涙が止め処なく流れ落ち、空を切った腕は舞いしきる花びらを掻き集め、引きつった喉が、大声を上げて猫を呼んだ。
何度も何度も。
花びらがその身を隠してしまい、辺りが闇に沈んでも、その声が枯れるまで、何度も何度も、鈴は猫の名を呼び続けていた。
鈴 鈴 泣かないで
私はまた君に会えて 名を呼んで貰えて 本当に幸せだったんだ
君を泣かしてばかりで それだけが心を痛めるけれど
ねぇ 3日間でいいよ
私は3日間悲しんでもらえたら それでいい
その後は どうぞ笑って
私のことは忘れてしまって 笑って過ごして欲しい
きっとまたどこかで出会えるから
君がくれた この春の名を携えて
だから それまでは幸せに
笑っていて
鈴 鈴 ありがとう
闇夜にひらりと一枚の花びらが舞う。
白く浮かぶ手のひらがそれを受け止め、柔らかな口付けが落とされた。
「さようなら」
囁く少女はもう泣いていない。ふわりと微笑んだ気配だけがそこには残されていた。